玉泉中学校

東京都立玉泉中学校(旧制)

玉泉中学校の沿革

東京都立玉泉中学校は昭和15年4月に東京府立第十八中学校として東京府立第十中学校 を仮校舎として開校した。翌年から玉泉中学校と校名を変更し、東京府狛江村(現狛江市)に用地を確保し校舎建設を予定したが実現せず、昭和21年3月に都 立第十中学校に併合された。用地は現在、狛江市立第一中学校と市民グラウンドになっている。卒業生は1期生、2期生合わせて300人、3期生の一部40名 が4年修了で進学した。

創立された昭和15年(1940)は皇紀2600年と いわれ祝典が行われたが、翌16年に日米開戦となった年である。戦争のため昭和19年からは学徒動員が行われ、1期生は立川の陸軍航空廠、2期生は高円寺 の陸軍気象部、3期生は三鷹の日本無線、4期生は中島飛行機三鷹研究所に動員された。

 ……昭和186月に「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、本格的な学徒の戦時動員が開始された。以後年齢の引き下げ、労働時間延長など動員は次第に強化され、昭和203月の「決戦教育措置要綱」では国民学校初等科を除きすべての学校の授業が原則停止となった(当時の歌「ああ紅の血は燃ゆる」)。

卒業が戦時中だったため卒業記念アルバムも作成できなかった。創立 60周年を記念して文集を発行し,また残ったわずかの当時の記録を収集した。

2期生は尋常小学校最後の卒業生として玉泉中学校に入学した。12月に戦争が本格化し17年から小平の兵器補給敞や久我山の岩崎通信機(電 波探知機)などへ散発的に動員されたが、19年6月から高円寺にあった陸軍気象部に長期動員され、天気図作成や各種実験などに従事した。動員は昭和20年 3月の繰り上げ卒業後も20年7月まで続き、この間空襲により気象部が被災し中央気象台などへ移ったものも居た。